好きと言う名の免罪符


http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20071209/1197232409#seemore


ウェブ進化論ウェブ時代をゆくも読んだのだが、それにいまいちよくわからない違和感を感じていた理由がちょっとわかった気がする。
ネットでプログラマー35歳限界説とか、アニメイターの薄給とか、「好きを貫く」ことができないから人々の興味を引くのだと思う。
「好きを貫く」のは難しい。
人生をうずめるなんてことしたら、うずまったまんま死んでしまうかもしれない。
好きなことしてるんだから、それは自己責任で不幸になってもしょうがない…みたいな。


自分も大学院に進学しようと思っていた。
たくさん勉強もしたし、研究もしたし、論文もたくさん読んだ。
半年前おれは好きを貫いて日々生活していた。
でも、教授の手伝いや、後輩の指導、共同研究……こういった雑事はまだ耐えられた。
一番辛かったのは、「好きを貫く」ための自身の研究を教授に認められなかったこと。
何度も教授と衝突したし、周囲ともすれ違ったりした。
でも、それはささいなことで、1年間けっこう楽しく生活していた。
6月ごろ明日のゼミの資料をつくっていたとき、「あれ?自分は何をしているんだろう?」そう思った。
おれは「好きを貫く」ことをしていると思ったら、教授の劣化コピーになっていた。
自分は教授のイエスマンで、やれと言われたことをこなしているだけで、自分で考え、自分で選択をしていなかった。
そう思ったら、進学することが怖くなった。
進学できなかった。


教授の指導はいたって普通(そら、毎日遅くまで研究していたし、深夜まで自宅で勉強していた)だったので、結局のところ自分はそういった研究の世界についていけなかった自分の適性の問題。
できる人は教授や周囲の人とうまく折り合いをつけつつ、自分の研究の密度を高める…そういったことができていた。


おれは今年(研究自体は1年近くやっていた)こういった経験をしたのはなんだったのか?と考えている。
好きを貫けなかった自分はダメ人間なのか?責められるべきなのか?
結局のところそれはよくわからない。


「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法 を読んでちょっとだけ楽になれた気がする。
もちろん逃げまくったり、怠惰に生活しているだけじゃなにも手に入らない。
好きを貫くことはできないけど、なにかすばらしいものを好きになりたいし、好きな女の子と出会えたらうれしい。
好きを楽しむための努力はこれからも続けていきたい。
ただ、好きを免罪符に不幸を強いたり、人生をうずめて不幸になることはしなくてもいい。
だれしもがオープンソースの開発者にはなれないかもしれないけど、あなたの隣りにいる人を笑わせることくらいはできるようになりたい。